史記・項羽本紀』⑤〜英雄の末路〜

 前回は、項羽の失脚と劉邦の決定的な勝利を決める戦い、「垓下の戦い」と覇王別姫の話をご紹介しました。項羽は800人の騎兵を率いて、包囲網を突破して南へ向かいうところまででしたね。

 漢軍は夜明け頃にようやくこれに気がつきました。漢軍の将校灌嬰は5000人を率いて追いかけ攻めました。項羽が率いた800人の兵士は次第に数を減らし、東城(現在の安徽省定遠県の東南部)に辿りついたときに、項羽に従う者わずか28人になりました。項羽はもう逃れるのは無理だと観念し、部下にこう話しました。「俺は挙兵してから8年経ち、70回あまりの戦に参加し、一回も負けたことがない。これにより、覇王となり、天下を取った。今日はついにここに包囲されたが、天が俺を滅ぼすのだ。戦に負けたわけではない。このことを証明するため、最後に包囲網を破って、諸君に見せるぞ」。

 項羽は28人の騎兵を4隊に分けて、四方に向かって切り込みました。大将を殺したりし、漢軍の兵士を合わせて100人あまりを斬りました。再び集合する時に、項羽が失ったのは2騎のみでした。

 項羽たちは東へ向かって、烏江という長江の渡し場に着きました。ここで長江を渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地です。烏江の亭長(宿場の役人)が舟を泊めて、項羽を待っていました。そして、項羽にこう話しました。「江東は小さいとは言え、土地の面積は数百平方キロ、人口は数十万あります。この地で王となりなさい。この近くで船を持っているのは私だけ。漢軍が追って来ても川を渡ることはできません」。しかし、項羽は笑ってこれをきっぱりと断りました。「昔、江東の若者8000人を率いて江を渡って西へ進んだが、今一人も帰る者がいない。江東の者たちが再び俺を王にすると言ってくれても、彼らに会わせる顔がない。この俺を責めなくても、俺は心の中で恥ずかしくてたまらない。」と答えました。

 項羽は亭長に自分の愛馬騅(すい)を与え、部下と共に、漢軍の中へ突撃しました。項羽一人でさらに数百人を殺しましたが、身体中傷だらけになりました。項羽は漢軍に旧知の呂馬童という将校がいるのを見て、「旧知のお前にひとつ手柄をやろう」と言い、自らの首を斬って死にました。

 ところで、項羽が烏江渡りを断ったことについて、唐や宋の時代の詩人たちが、これにちなんだ詩を多数読みました。その代表的なものを2つご紹介しましょう。

(唐・杜牧)

胜败兵家事不期,包羞忍耻是男儿。

江东子弟多才俊,卷土重来未可知。

戦の勝敗は兵法家でさえ予測はできぬ。

恥をしのびにしのぶ、それこそが男児だ。

江東の若者にはすぐれた人材が多かった。

再起をはかっておれば、事態はどうなっていたか、わかるまい。

 これは、項羽が烏江を渡らず死んでしまったことを残念に思うパターンですね。

 しかし、宋の時代の大文豪であり、政治家でもある王安石は違う見方を持っています。

百战疲劳壮士哀,中原一败势难回。

江东子弟今虽在,肯与君王卷土来?

連戦に疲れはて兵士は悲しみに沈む

中原での最後の敗戦は もはや決定的

江東の若者たちがなお残っていたとしても

君王のために巻き返すことなどしようか

(石川忠久氏訳より)Starshop

 唐の杜牧が惜しい気持ちを持っているのと違って、王安石は反対意見を持っていますね。たとえ、優秀な若者が残っているとしても、項羽が今になって、もう人民を惹きつける力がないのではないか、と疑っています。

 項羽は家柄がよく、戦いに非常に強いのですが、自信過剰なところと、まっすぐ過ぎるところ、そして、好き嫌いがはっきりしていて、人に対してあまり寛容ではないところ、とても残虐な一面があります。2つの事例を挙げてご説明したいと思います。